長崎

誰しも、生まれた町があり、育った町がある。
まあ、村だったりするかも知れないが。




僕にとっての産まれた町は、九州の最西端に位置する、小さな町だった。
こう書くと、僕の事を多少でも知ってる人は 
「え? 広島じゃなかったの?」 と思うだろう。
それはそれで、また違う話がある。

今回は、紛れもなく生まれ育った長崎の話。


高校をあっという間に中退してバイトなんかもあっという間にやめ続けては
一生パチンコで暮らせていけりゃ楽だなあぐらいにグダグダしてた僕は
その頃、楽器なんてまったくやっていなかった。
まったく、は言い過ぎか。中学で習ったクラシックギターで、CとAmとFとGは辛うじて知っていた。Fにいたっては、初心者が誰でもつまづくレベルで、つまづきっ放しだった。思えば今も、つまづいたままだ。


音楽といえば、もっぱら聴くのが専門で、それもアニキがステレオで流す

松山千春や長渕剛やユーミンや甲斐バンドや中島みゆきや中森明菜だった。

中森明菜は異端に思えるのだが、アニキも二人いれば、まあ、そんなものだ。
僕が自主的に聴いたのは、中学の悪友の間で流行ってたスネークマンショーやそれに付随するYMOのコミカルなおふざけ盤で、おおよそ今の音楽性を表立っては支えていない。ただし、人間性としては堂々と表を支えている。




そんな僕だったから、そのうち家族から飛び出して、好き勝手にやった。
好き勝手な生活のBGMは、尾崎豊でありアルフィーだった。
なんでまた・・・と、この取り合わせに驚く方もいらっしゃるかも知れないが、なんだかそうだったのだから仕方がない。酒飲みは、ビールも焼酎もカクテルも同じ様に飲めるものだ。混ぜはしないが。


ああ、その頃の事を余すことなく書こうとすると、本題にまったく触れられない・・・。


なのでここは端折って、そんなだらしない生活のイラストレーター志望の世間知らずが家を飛び出して借金でも作ってあちこちに迷惑をかけて、それでも懲りずに飛び出してガッカリさせて、なのにまだ飛び出してこれでもかと言わんばかりに迷惑をかけて 「帰ってくるな」 と言われた後から、物語を始めよう。




僕が歌唄いを始めて、2~3年が経っていた。
それは今の本拠地(それさえも最近じゃ戻っていないが)広島であり、当時は彼女の実家の店を手伝い、二束のわらじだった。この二束のわらじが、一生涯の曲者である。


成り行きではあったが、風来坊の身の上をやめる決心で、僕は長い事連絡を絶っていた家族に電話をした。今では仕事も任されている身だし、広島にきちんと身をおいて生活していくと。
実はその時すでに彼女に振られており、借りているアパートの名義を自分にしなければいけなかったからだ。親不孝も限りを尽くした上に、まだ脛を齧るというのかコイツは。


なのに、だ。
それまでやりたい放題だった僕に相当の憤りもあったにも関わらず、両親が家族が許してくれたのに

僕は、そこをやめた。


逃げた。
彼女がいなくなった今となっては、続ける意味を見つけられなかったからだ。
なんて子供染みた、身勝手この上ない話だ。
しかも、それは初めてでなく、そうやって同じ様な状況で広島のバイト先を辞めるのは、これが3回目だった。
毎回、親が頭を下げたはずだ。




僕はもう、やりたい事しか出来ないワガママな人間だと、自分をあきらめた。
どれほど誰かに頭が上がらず、何かを我慢し続けていようと、絶対にどこかで限界が来る。
逃げ場が、酒だったり薬だったり血を流す事だったり、中途半端な逃げ道ばかりだった。
いっそ、キリストを裏切って銀貨30枚で売り渡したイスカリオテのユダみたいに首を吊って死んでしまえばいいのにと、家族ならずとも思ったはずだ。僕が思ったのだから。

家族のためにも、もう、家族とは別れよう。
まるで、浮気相手に本気になった男の、出来損ないの言い訳みたいだけど。





それから僕は、本物の宿無しになった。
宿無しになって2年後、久しぶりに九州の地を踏んだ。
福岡から始まり、佐賀へ行き、順路として長崎に辿り着いただけだった。
よそよそしい、だけど知り尽くした街で、僕は旅人になって唄った。
時間を潰す場所なら、いくらでも思い浮かんだ。
そして、その一つ一つの場所に、誰かの記憶があった。
そして日本中のどこへ行こうと、この町の記憶は僕の心の片隅で、意地の悪い神様みたいな邪魔をする。

大波止、といえば長崎の港だ。
僕は、昨夜眠りこけた港の倉庫街を抜け出し(追い出され)、ギターを担いでは当てもなく街中へ歩き出していた。
一晩中唄っていても知り合いなんか会わないくせに、なぜか道端で、昔のバイト先の先輩に会った。やっぱり同じバイト先で知り合った人と結婚したが、噂では何らかの借金で負われて、挙句、病んだ人だった。病んだ内容までは知らない。
そういえば1度、金を借りたいと電話があったっけ。
でもその人はもう、大学時代に柔道部の主将で大らかだった頃と違い、なんだか卑屈で嫌だった。
やつれた頬で卑屈に笑い、宿無しの歌唄いを 「いいなあ」 と羨み 「ボクなんか、本当に明日死ぬかも知れないしさあ」 と、やっぱり卑屈に笑った。我が身の不幸を寂しそうに口にして、何か少しでも自分の手にしようと一生懸命だった。
僕は、身の不幸を他人のせいみたいに話す彼に 「まあ、みんな大変だから」 と、よくあるセリフを口にして、早々にその場を去る事しか出来なかった。
よくあるセリフなんて、大嫌いだったはずの僕が。

彼の披露宴以来、数年ぶりの再会は、大声で笑うでもなく、肩を叩きあうでもなく、お互いの不遇をそれとなく口にしながら懐を探り合う、みっともない再会だった。
仕方ない。僕は僕でその時、昨夜入った大事な千円札2枚がポケットに無い事に気付いて愕然としていたのだから。

彼と別れ、僕がいた頃にはなかった港の近くのでかい遊歩道に行き、なけなしで買った缶ビールを飲みながら、暗い気分は抜けなかった。
だからそれ以来、彼の事は嫌な思い出として忘れたがっていたし、そのうち忘れた。
そして、ある日思い出す。


数年後、僕はまた九州にいた。
その街との相性は最高に悪いのか、どこで唄ってもダメだった。
毎晩10時間ほど唄っても300円がいいとこのある日、僕は最後の10円玉で電話をかけた。
中学からの友人が、この街にいるからだ。
思い立った時、更には金に困った時だけたまたま電話するだけの友人。
惨めだったが、なんだか心細くて、来てくれとは言わないまでも声が聞きたかった。10円玉一枚で実のある話など出来るはずはないのだが。
それでも彼は、いつも精一杯の優しさで僕を受け止めてくれていた。だからこそ、その優しさに触れたくて電話をかけたのだ。

繋がった電話は相変わらず突然の僕に、いつもの驚きようだったが、声が重苦しかった。

「あの・・・さあ・・・今・・・転勤で横浜にいるんだ」

そうかゴメンゴメン、という、僕の強がった笑い声は、彼に届く事なく通話は終わった。
僕は、長崎で会った変わり果てた先輩とのやり取りを、なぜか思い出した。
同時に、時の流れと自分の不義理を嘲笑った。


長崎は今や僕にとって、よく知っているが、よその土地だ。
なのに、夕方の西坂公園から見下ろす駅前も稲佐山のシルエットも、路面電車のブレーキの音も、コンビニの店頭さえ、何もかもが空間を越えて、記憶に埋もれたはずの誰かの面影に繋がってしまう。
時間だけが、それを越えきれないまま。


それを人が故郷と呼ぶのならば、時間を取り戻せない僕に、故郷は無いのだろう。







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