佐賀

結果として九州全県を周ったのが、2002年の秋から2003年の春までだった。
「当てのない」というのが「目的地のない」という意味であれば、これほど当てのなかった旅もない。
目的はあったが、目的地はなかった。


9月から福岡に渡り、九州で年越しになる事はおおよそ予想が付いていた。
予想外だったのは、途中から二人旅なんていう厄介に巻き込まれた事だ。

コージが広島の歓楽街である流川に居付いてから、どれくらいが経っていたんだろう。

僕は未だかつて、ここまで僕よりだらしない奴を見た事がなかった。

酒さえ飲めればいい。
女だったら誰でもいい。
歌はひどいわギターもひどい、ついでに僕より歯がない。牙しか残ってない。

人間、見た目ではないと言うが、内面を下回るひどい外面だった。
ギターは自前のペイント(マーカーだ、奴はマーカーでペイントしてた)で塗りつぶした日章旗デザイン
そしてこれまたマジックで書かれた 『天上天下唯我独尊』 の文字。
僕と同い年で32歳にもなる男が、天下に轟く悪名の広島暴走族でも躊躇するような事をやってのけ、当の本人のいでたちと言えば、今時マンガの泥棒でも生やさない様な伸びきったヒゲに、最後に床屋さんに行ったのはいつかしらというボーボーの髪(これは僕も言えた義理じゃない)。鋲を打った黒いレザージャケットに迷彩パンツで、追加するならおチビさんだった。

そいつがヘビメタから演歌までを中途半端に網羅したレパートリーで唄うんだから、そりゃあひどいモノだった。
何より、それでも投げ銭の入るこの日本がすごいと言うしかない。

そんなひどい奴とつるんだのは、僕もまた、ダメ人間だったからだろう。
前歯が全部なくなった口元でニヤッと笑うときのアイツの顔を、結局のところ僕は好きだったんだ。
思えば僕もコージも、お互い宿無し流れ者の気楽さと寂しさは共通の物だった。
すべてがポジティブに能天気なコージも、いちいち面倒くさい思考回路の僕も、単純に人との接点なしで生きていけるほどには強くなかった。
風来坊は、元来が寂しがり屋だ。そしてそれは、決して良い事じゃないと思っている。

繁華街で、気付けば朝までギターを鳴らして唄ってる様な連中だから、知り合う人間もピンからキリまでだ。更に困った事に、キリが8割だ。
いつもギャアギャアと大声で、わざとレパートリーにない歌をリクエストしては帰るお姉ちゃん。いつも歌なんかそっちのけで、頼んでもないギター講座を開いては去っていくお父さん。
いつも、久しぶり~、と数人でやってきて、今から行くキャバクラを思案して通り行く若者たち。
アンタらアタシが面倒見てやろうか? と意味ありげに微笑んでは座り込み、数分後、探し回っていた彼氏に見つかって、いや~! と叫びながら車に乗せられていくベロベロのお姉さん(面倒見てもらわずに良かった)。
いつも同じ歌をリクエストするけど、歌なんかそっちのけで、メシ食ってるか? と千円札を入れていくお父さん。
いつまでもいつまでも、僕たちの仲間になった気で、朝まで座り込んで唄う面倒くさい兄ちゃん。

そんなピンキリの来客の中、これこそ困った事なんだが、僕もコージも、そんな人達が大好きだったのだ。つまらない事に巻き込まれては

「たいぎぃ(広島弁で、面倒くさい・疲れたの意)
を連発するコージだったが、誰かの来訪を心から嫌がった事がない。

わざわざ、という行動に弱いのだ。
そして何より、言葉を投げあう『会話』ってヤツに、それこそまるで無人島で何十年も過ごした人間みたいにいつも飢えまくっていたのだから。

知らない場所では、誰しも早く知り合いが欲しい。
それがいずれ生き難さに繋がる事は、知っているはずなのに。
一期一会などどこ吹く風で、コージも、そして僕も、広島での知り合いは増えていった。

いつも通りすがりに「お疲れさん」と、『サッポロ生搾り』を渡しながら通り行く僕を、コージは当初

『お疲れさん』と呼んでいたらしい。

すでに広島に知り合いも出来たコージが「そろそろ『お疲れさん』が来るで」と時計を見ながら話していたんだと、後で聞いた。

何の事はない。
僕自身が、あいつに近づいたのだ。
僕が今でもあいつを責めたり出来ないのはここだ。
寂しがり屋は、僕だ。

それを確信したのが、佐賀だった。

雨や稼ぎや色々で、やがてどちらからともなく合流する事の多くなった僕とコージだった。
その晩俺は「明日から九州に行く」と告げ、最後の宴がどこまで続いたのかは覚えてない。
でも、はっきりと言えるのは、僕はその時点ではコージを誘っていなかった。
それが二人旅になったのは、決して寂しさからじゃなかった。

福岡~佐賀~長崎~熊本~鹿児島、と移動した11月。
僕は、久しぶりの広島へ電話をかけた。
宮崎へ移動する前日だった。
流川でお世話になっていた母さん・・・ちょっと歳を召したスナックのママさんだったが、僕は「母さん」と呼んでいた。

「いつでもええけ、飲みにきんさい」と、顔を出す度に、タダで飲ませてもらっていたお店だ。
そこに、なんとなく気になっていた事を確認しようと電話をかけたのだ。

虫の知らせなんて気の利いたものじゃないが、電話をかけた事は大正解だった。
久しぶりやね~元気しとるね~、と母さんは上機嫌だったが、僕がコージの事を尋ねると、すぐに声が曇った。

「困っとるんよ~。来るたんびに、お店のボトル1本なくなるし・・・なんか、最近は唄っとらんのじゃないかねぇ。」

九州へ渡る数日前、僕がコージを母さんの所に連れて行ったせいだ。
僕は

「すぐ戻ります」

と告げ、明日の宮崎の稼ぎで、なんとしてでも広島行きを決めようと思った。
僕が紹介したヤツのせいで、人を困らせるのは嫌だ。

日豊本線でたどり着いた宮崎は、なんとも僕に温かい街だった。
お陰で広島までの移動費を超え、また再び九州へ戻れるほどの稼ぎになった。
良い出会いや誘いもあり、これが急ぐ身でなければ・・・と、コージを恨んだ。


高速バスで広島に戻った僕がコージを探すのは、至って簡単だった。
新天地公園はホームレスその他、身分不詳の連中の坩堝で、ヤツは上位に君臨するダメ人間だったからだ。

「ああ。コーちゃんなら、そのビルの2階で寝とると思うよ」

僕が薄暗いエレベーターで上がると、ダンボールが敷き詰められた廊下に、でかい引きずり荷物とギターケースと、コージが転がっていた。
違法もここまでくれば、拍手したい気持ちだ(ここはそのうち僕も世話になり、宴会の声がでか過ぎてバレて即退去命令が出た)。

コージの第一声は、思いもかけなかった。

「おぉ・・・どしたん・・・」

僕は、てっきりいつものハイテンションで、なんしょん~! 帰ったがかや! と、酒臭くわめきたてると思っていたのだ。

まずは挨拶代わりの生絞りで乾杯して、近況より何より、母さんが困っている事を告げた。
するとコージにも色々・・・ホームレスにしか見えない三十路の歌唄いだってロマンスはあるもので、実は広島で付き合っていた女の子とどうだこうだ・・・とあるようで、僕が機を伺って

「俺と、九州に行ってみんか?」

と尋ねると

「ワシも、潮時じゃと思っとったんじゃ・・・」

なんて返事が返ってきた。
とりあえず当てもなく流れて来た広島だけど、別に未練はないと。

そして僕らは、数日中に九州へ向かおうと決めた。
まずは福岡までの移動費、高速バスの4000円を稼ごうと、唄った。
2日目に大きな稼ぎがあり、タイミングを考えて、明後日に出ようと約束した。

なのに、いよいよ出発前夜だという時に、ヤツは酒代で金を減らし、自分の移動費を確保できなかった。

腹も立つが、なんとなくは読めていた結果。
僕は珍しく銀行口座なんかに入れておいたとっておきの1万と数千円を引き出し(後にも先にも、そこに自らお金を入れた事はない)、とにかく、この夜が明けたら出よう、と言い聞かせた。
言い聞かせても、ミユキの金があるからいいや~、なんて手持ちを減らされるのは嫌なので、朝まで一緒にいた。

翌日は福岡へ移動。
酒の残った頭でウトウトしていれば、バスなんてあっという間だった。
福岡は初めてらしいコージだったが、ここは僕に似て観光なんかまったく興味のないやつ。
バスを降りてすぐに駅前のでっかいサウナに誘ったら、ホイホイと付いてきた。
コージも僕も、汚れきっていた。
まずは汗も垢も泥も流してすっきりしたい。
何より、二人旅の初日。ここは形だけでもキッチリとしたいじゃないか。

なのに、キッチリなんて言った舌の根も乾かぬうちに、風呂上りのビールでニヤける二人。


僕も僕で、せっかく宮崎で稼いだ金だったけれど、下ろしてしまうと後は諦めも早いもの。
早々に宴会を始めてしまったのだ。
コージもコージで 気を良くしてしまい

「これがお前の言う旅唄いなら、ワシも考えてみてええが」


なんて、まだ初日の本番も終わらぬうちから調子に乗る始末。
しかし九州はそんなに甘くなかった。
何より、世間が甘くないのだから。


とにかく、こいつと周った九州・・・福岡~長崎~熊本~大分と、思い出すだけで悔しさ満開のエピソードばかりなのである。
長崎ではいきなり、着いた途端にバスから降りられなかった。

飲み過ぎのせいだ。
運転手と二人、必死になって抱き起こし、引きずり降ろした。

僕も経験済みの熊本は、相変わらず良い感じだった。
コージもなかなかの人気者になってくれたが、最終日に目の前の鰻屋さんが親切に下さった鰻丼を、「大好物」と言い切った挙句、半分しか食べられなかった。これも、二日酔いのせいだ。

年越しは長崎でやろうかと言ったのは、僕だった。
龍踊りで有名な長崎くんちが開かれる諏訪神社下の小さな地下道は、飲み屋街では難しい三ヶ日を過ごすのにちょうど良い気がしたのだ。
ほとんど毎日サウナに泊まれるほど調子の良かった街でも、長くなると

「まだ旅に出ないの?」

と、次第に胡散臭く見られてしまうからだ。
タビタビ詐欺みたいに思われてしまうんだろう。

年末の長崎は、思ったほど稼ぎも良くなかった。
それでもギリギリ、屋根つきの場所で夜は越せた。
じゃなきゃ南国とはいえ、冬には雪も降る長崎で、無事に過ごす事は出来なかったはずだ。
長崎で雑居ビルに潜り込んだりはしてないから、金があればサウナで、なければ24時間の店で朝を待っていた。
意外に昔の事を覚えている僕も、長崎の事になると記憶が曖昧だ。
もしかするとすごく大変だった事を、記憶が否定したがっているのかも知れない。
氷点下の夜、雑居ビルの廊下で衣類をありったけ身にまとって朝を待った日々は、いつも思い出したくないから。

そう。それよりコージだ。
コージは特に長崎を気に入る事もなかったようだ。
昼の金の使い方を次第に口うるさく言い始めた事や、いちいち、ここはなんとかで、これは・・・と、捨てたはずの地元を説明する僕にも嫌悪感を隠せない感じだった。

新年も明けて数日。

「別行動しようや」

言い出したのは、僕だった。
発端は、二人一組で分ける稼ぎの少なさだった。
どうしても、寒い冬には人通りも少なく、こればかりはどこにいても大変なのだ。

最初は、コージを広島から連れ出すためだけの九州移動だった。
目的は、達成した。
後はコージが個人的に気に入った熊本へ戻ってもいい。
が、いつまでも付き添う理由はない。
何よりも僕が、コージの路上での振る舞いのだらしなさに嫌気が差したのだ。

その日の足で僕は、どうでも良さそうな顔で納得したコージを長崎に残し、同じ県内の佐世保へ移動した。
佐世保は初体験だった僕は、命からがらといった感じで唄い終えた。

次に久留米へ行き、荒っぽいオヤジに絡まれかけたりしながらも、なんとか唄った。
降り出した雨を避けて転がり込んだサウナで一息ついてビールを飲んでいると、演歌が流れていた。
氷雨だった。
嫌な事に、コージのヘッタクソな、風情も情緒もないダミ声の氷雨を思い出した。

翌日は、佐賀へ向かった。
僕はそろそろ、本州へ戻るつもりでいたのだ。

佐賀は、昨年の秋口に、楽しく唄えた街だった。
寒い真冬とはいえ、白山の飲み屋街は長崎より活気付いて見えた。
飲み屋街にデン! と構える饅頭屋さんの付近に歌唄いがひしめいていたけれど、僕は集団に紛れては稼げないので、まずは他所を当たった。

正月空けて以来、ようやく大台の稼ぎが出た僕は、ひとまずギターをしまった。
それから饅頭屋のビルのあたりで唄う若い子に声をかけて、ダラダラと話していた。
コンビニで酒を買って、グダグダとしゃべり続け、僕もお兄さんと旅してみたいな~、なんて言わせて調子に乗って酔っ払い、目が覚めたら誰もいなかった。
置いてけぼりは、するのも、なるのも、本当に僕の得意技らしい。

白々と明け始める空の下、凍えながら駅へ歩き、長崎に置き去りの馬鹿野郎に電話をした。
僕と同じホームレスのくせに、プリペイドの携帯電話なんか持ちやがって。
あの馬鹿は、この寒さの中で生き延びているんだろうか。

電話は、コール5つくらいで繋がった。
眠そうな声が聞こえる。
福岡の、いつもホームレスの寝てる広場で一緒に寝てるらしい。
馬鹿か。死ぬぞ。ていうか、よく福岡まで動いたもんだ。


朝一の電車で博多へ向かい、僕は地下鉄にも乗らずに天神へ歩いた。
真っ白な息を吐きながらたどり着いた広場のベンチで、ひときわ大きな荷物を置いて寝転がるヤツがいる。

「おい」

僕の声に、のっそりと影が起き上がった。
周囲のホームレスが、ちらりと様子を伺っている。

僕は寝ぼけたままのコージに言った。

「サウナ行くぞ。相棒」

僕とコージは真冬の寒さを忘れるみたいに、ガンガンに汗をかき、二人でビールを空けた。
次に僕が愛想を尽かす小倉までは、また二人の旅は続くのだった。






Google マイマップ 「西高東低~南高北低」
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神戸

神戸では、もう唄わないだろうと思っていた。
どうしてもアーケードで唄いたい、という知人と共にここを訪れたのが10年近く前。
まだまだ路上演奏を始めたばかりの彼は

「これで俺たちも、三宮デビューですよ!」

と、日曜深夜のまばらな人通りの中、数組がうるさく演奏しているそのアーケードで喜んだ。
僕はといえば、なんで好き好んでこんな騒々しい場所で唄いたがるのか理解できないまま、2、3曲だけ形式的に演奏し、そして誰一人立ち止まる事もなくギターをしまった。

神戸遠征。
知人はただ、それをやりたかっただけなのだ。
これでまた広島の片田舎に戻っても

『俺、神戸でストリートやりましたよ!』

と、自慢げに語る武勇伝が出来て嬉しいのだろう。
武勇伝なんて、おこがましい。
ただの、話のタネだ。
僕は話のタネに唄う彼と、だからそれ以来一緒に唄っていない。
ついでに、賑やか過ぎる神戸で唄う事もないと思っていた。
それがどうして三宮なんだ。

その冬、僕は初めての奈良県での演奏をなんとか手応えのあるものにして終わり、本拠地の広島へと移動していた。
雪は少なかったが、やはり2月の街は当然のように冷たく、深夜の人通りの少なさはそのまま、生活費と移動費にダメージを与えていた。
毎晩、入ったか入らないかの収入で小さな移動を重ねながら、そろそろここでまとまった稼ぎが欲しい、と思ったのが神戸だった。

神戸には、数年来の友人がいる。
名前を Lyou としよう。ま、そのまんまなのだが。

数年来といっても年に一度、8月6日に広島で会うだけのミュージシャン仲間だ。

思い起こせば山陽道を西へ東へ移動する事の多い動きの中で、なぜか通過するだけになっていた神戸に降り立つのを決めたのは、なんの見返りもないのに被爆者への追悼を胸に毎年広島へやって来てくれるLyouへの、せめてもの恩返しだった。

ただ、妙な事があった。

その頃の僕は今と変わらず、自分の日々の動きを、ネット上で日記にしてあちこちに知らせていたのだけど、Lyouへ宛てて書いた『神戸に行く』という日記に対して、奈良の友人がしつこくメッセージを入れてきたのだ。

こいつもまた8月の広島で会った恐るべきマイペースミュージシャンで、亡くなった河島英五にギターを教わった事が何よりの自慢という、やんちゃな、けれど憎めない奴だった。
名前を、かっちゃんとしよう。これまた、そのまんまなのだが。

僕はしつこいメッセージに、これは恐らくLyouと仲の良いかっちゃんが羨ましがって逐一様子を知りたがっているのだろうと苦笑いで流していた。
まさか、楽しそうだからといって、わざわざ奈良から神戸にやってくる奴はいない。


17時のHANDS前は、前後左右へと目まぐるしく人が流れている。
いつも通り防寒には念を入れていたが、海からの風が衣服の隙間から吹き込み、夜もまた冷え込む事は予想するに容易かった。
煙草を吹かして寒さをやり過ごしていると、定刻どおりに横断歩道の向こうからやって来るLyouが見えた。

その姿は、ギターを抱えたイチローのようだ。

相変わらずのハンチングに「久しぶり」と笑い、彼も笑った。
そして

「今、かっちゃんが車で神戸に向かってるみたいです」
という報告で、再会の笑みは大爆笑に変わった。

楽しそうだからといって、奈良から神戸まで来るアホがいたのだ。

おかげで、毎年の広島への遠征を労うはずだった会話は、かっちゃんの無謀な大移動へとスライドして、終始その無邪気なバカっぷりエピソードに、生ビールのジョッキが重ねられた。

聞けば、仕事で和歌山にいたというかっちゃん。
海を渡った訳でもなく、余計に遠回りだったんじゃないのか。
楽しそうだからといって、明日の仕事も考えずに移動する距離じゃない。
何度考えても、苦笑いのオンパレードだ。
そういえば、そんな無茶をする人が、富山にも一人いたっけ。。


21時。焼き鳥屋を後にして、僕とLyouは東門街の通りを物色した。
なかなか道端でギターケースを開くには難しい場所なのだが
運良くというか最近営業を停止した大きなホテルがあり、僕らは

「これは、俺達に唄ってくれといわんばかりのお膳立てじゃないか」

と、嬉々として荷物を置いた。
初めての場所で緊張してしまう僕も、今夜は心強い仲間がいる。
もう1名、心強いかどうかは分からないが間違いなく楽しい仲間が増える。

神戸の夜は、始まった。

しばらくは、お互いに選曲した歌を交互に唄って行くスタイルでスタートした。
Lyouは、色んなストリートミュージシャンを見てきた中で、もっともストイックが似合う男だ。
ストイックなんて今時どこにあるんだという時代に、やはりストイックだ。
数年後、ギターを抱えてアメリカへ行った時も、帰国するまで誰にも行き場を告げていなかった。
それもまた、ストイックだ。
僕だったら絶対に、日本にも飽きたからさ~、とかニヤニヤしながら口が滑るはずだ。

イチロー顔の男は、皆ストイックなんだろうか。

今度、イチロー選手と仲の良いマナカナさんに聞いてみよう。

Lyouの唄い上げる、街を不快にしないセンスの良い選曲と、コンビニで買ったハイネケンと、冷たい風のコンビネーションが心地良い。

途中、ヤクザっぽいのが投げ専用の帽子を指差し

「唄ってもええけどな、これはしまえ」

と言ってきた時も、気の大きくなった僕は睨み返していたほどだ。危ないもんだ。
それでもまあ、投げ銭なんて入る時は勝手にどこにでも入るもの。
それを画的に許せない集団もいるという事にして、睨んだものの形式上さらりと従ったので大阪の二の舞にならずに済んだ。
一の舞である大阪の話は、また時間があったら書こう。

あれこれやってるとLyouの携帯が鳴った。
奴が、到着したらしい。

迎えに行ったLyouとやがて現れたでっかい、モッサリした、満面の笑みの男。

僕は彼の筆舌に尽くし難い行動力を

『お前、アホやろ!?』

と、最上級の賛辞で迎えた。
アホも、嬉しそうだ。

なんにせよ今夜の主役は彼に奪われるわけだが、そんな夜もいい。
路上演奏は初めてというかっちゃん。。。

そう。何を隠そうかっちゃんは、これが路上デビュー。

路上演奏なんて邪道だと、今まで一切やらなかった男が何を血迷ったのか、和歌山から車を飛ばして神戸にやってきた。
そこまで人を豹変させた責任を感じたが、唄い出した彼を見て、そんなもんは吹っ飛んだ。

メッチャ楽しそうやん!!!!!

引っ込めた投げ銭入れなどものともせず、人は絶えなかった。
たこ焼きも差し入れされた。
オヤジ連中が声をかけると、かっちゃんは何度でも、師匠の歌である名曲『酒と泪と男と女』を、バカでかい声で唄った。嬉しそうに唄った。シラフなのに、飲まれて飲んでそうだった。

そのうち、さっき文句を言ったヤクザ屋さんのお偉方さえ味方に付けたかっちゃんの勢いがキャバ嬢を引き連れたダンディーから一万円札を投げてもらうのに、時間は掛からなかった。


奈良のかっちゃんは、すこぶる上機嫌で、その顔を見る僕とLyouも、終わり良ければという顔で笑った。
僕の路上人生の中で、こんなにバカ笑いした夜も少ないだろう。

まだ終わりそうもない神戸の夜だったが、僕以外の二人には朝からの仕事がある。
Lyouを乗せて走り去るかっちゃんの赤いテールを見送ると、途端に寂しさが溢れた。
楽し過ぎただけに、寂しさは純粋に胸で溢れた。
一緒に楽しみ続ける事が出来ないのは、時間の都合だけじゃない気がした。
稼ぎの半分以上は、僕一人がもらってしまっている後ろめたさもあった。
まだまだ、大きなビルの影の向こうで続いてるはずの夜にもう一度飛び込もうかと思ったけれど、Lyouとかっちゃんからもらった楽しさを汚してしまいそうで、やめた。
そのまま、見送った車を背中にして、僕は瀬戸内の真っ暗な海が見たくなった。


誰もが列車や船や何かに揺られて進む旅の中、僕は、旅そのものに揺られて生きているのだ。
瞬間、同じ船に乗って、一緒に笑って、一緒に唄って、そして、僕だけが皆を見送る。

いつの間にか明け始めた海の上、大きな船が遠くに見える。
あれに乗る事も出来るし、あそこから手を振ってもらう事も出来る。
難しい事はない。
多数に入りたければ、多数に入ればいい。
それが、寂しさのせいでもいいじゃないか。

「寂しさに負けないってのは、寂しさを理由に失敗しない事だよ」

いつか自分で口にしたセリフが、涙を誘いそうになった。
だけど、泣いてもどうしようもない。
去り行く船に、笑って手を振り続ける方が、なんだか良い。

だって、ここは神戸。

泣いてどうなる訳でもないさ。






Google マイマップ 「西高東低~南高北低」
http://maps.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&hl=ja&msa=0&msid=117155757855294201939.0004585263f0a10720fca&ll=34.698296,135.190201&spn=0.015772,0.021114&z=15

出雲

まずは唄えそうな場所探しという事で、リサーチのつもりで座ったラーメン屋台だったが、オッチャンは数十年ぶりに出雲へ帰ってきた自分じゃ分からないと言う。

「どっか、唄っても良さそうな場所ってありますかねえ」 と尋ねた僕に、困った顔もせず

「ん~・・・分からへんな~」

と、おもいっきり大阪弁で答えてくれた。

仕方ないので、自力で探す事にした。
先行投資は水に消えたが、誰かに尋ねたところで結局、気乗りしなかったら唄わないんだし。
ん? 投資は消えてないか。ラーメンは食ったんだ。。

出雲の飲み屋街は一箇所集中型で、逆に困る事もなかった。
僕は駐車場そばの焼き肉屋横でギターを出し、準備にかかった。
車の往来はあるが、駐車場付近で道も大きく取ってある。問題はないだろう。

人見知りの僕も元気な片田舎では、なぜか緊張感が薄くなる。
いつもなら唄い出すまでに3本は吹かす煙草も、1本で済んだ。
日本酒も、1合で済んだ。いや、なら飲むなというところか。

気負わずに唄っていると、早速の通行人がヤジを飛ばしながら通り過ぎる。
ヤジと言っても、愛のあるヤジだ。好きだな、田舎町のこういう気さくなところ。
とか思ってると、ヤジのお兄ちゃんが戻って来て
「頑張れ!」と小銭を入れてく小憎らしさ。
好きだな、こういう人(笑)。


初めての出雲から、もう8年ほど経つだろうか。
今ではその場所じゃなく、もっと狭い、代官町の入り口で唄ってるけれど。
それでも僕にとって思い出の場所。
出雲の縁結びの神様に会った場所だ・・・。


嘉山さんはこの町で、本当にいろんな人と結びつけてくれた。

「俺はな、ミユキちゃん。あんたに心をもらったよ」

そう言う嘉山さんのお気に入りは、河島英五の『時代遅れ』だった。
若い頃は柔道で慣らしたという嘉山さんが、酒に酔い、歌に涙した。
決して酒は1日2杯じゃないだろうが。

時代遅れの町で、時代遅れに人情もろいオヤジ相手に、時代遅れの店で、時代遅れの旅人が唄う。
出雲の始まりは、そんなふうだった。
補足しておくけれど、時代遅れってのはこの場合、褒め言葉なんだぜ。
もちろん、僕の歌に対してもだ。


嘉山さんのお店は、和風スナックだった。
マスターは飲みに出かけ、ちょっと朝丘雪路似のママさん(歳はご本人より若い)が切り盛りするという、これまた時代がかった定番のお店。
名前を「かなこ」という。
今ならば、なんて良い名前だ! と暖簾だけで大絶賛していたところだが、その頃の僕はまだ残念ながらマナカナファンではなかった。
当時15歳のマナカナさんより、NHK『びっくりか』のセイ子お姉さんが好みだったろう。


僕はマスターに紹介されてお店で唄った。
年配の優しい常連さんに囲まれ、かなり唄った。そして腹いっぱい食べさせてもらった。
翌日も唄わせてもらい、更に翌日には松江のパブで唄う事も決まった。
明日は旅に出るという僕に、招待してくれた店の社長は松江の最高級ホテルを用意してもてなしてくれた。
この3日間、一銭も使う事のなかった僕の手元には、10万近い金が残った。
たかが、道端の歌唄いが。

その後、旅の動きに困っては、いつも出雲を訪れていた。
その度になんとか持ち直し、旅は続いた。
イベントで唄わせてもらい、他にも繋がりは増え、僕は広島から大阪へ行くにも、あえて山陰を通っていたぐらいだ。

年に5回は訪れる町。
まるで新しい故郷が出来た様だった。
道行く人も

「久しぶり」
「いつ帰ってきたの?」

と、親しげだ。

そうやって、数年が経った。
路上唄いの旅も5年ほどが過ぎ、各地にお気に入りが出来始めると、しばらく出雲との縁が遠くなった。
なんだかんだで1年ぶりになりかけたある日、僕は関東から広島へ戻る旅路の上、出雲へと立ち寄った。
久しぶりの代官町は平日で人気がなく、雨が降り出しそうな夜だ。

2時間唄ってみたが何もなく、やはりそんな時に限って雨は降り出す。
僕は仕方ない、と荷物をまとめ、千円の持ち合わせで久しぶりの『かなこ』さんへ顔を出した。

あら、と少し驚いたのはママさん。嘉山さんの姿は見えず、お手伝いのお姉さんがいた。
お久しぶりです、と挨拶して熱燗を頼んだ。

常連のお客さんが1人、お連れさんとカウンターで飲んでいる。
後ろでは、ちょっと見慣れない4人の団体さんが入ったばかりの様子だった。

「嘉山さんはお元気ですか?」

僕が尋ねると、ママさんはお通しを出しながらちょっと顔をしかめた。

「飲みすぎでぇ、寝ちょーが」

らしいな、と笑い、僕はグラスの熱燗を飲み始めた。
しばらくすると、カウンターのお客さんに挨拶を頂いた。
「どこ行ってたの?」
「ええ、東京まで」
そんな会話の中、お連れさんに

「このお兄ちゃん、ミュージシャンだよ。なんか唄ってもらったら」

と紹介してくれた。

その時の僕は久しぶりに故郷に帰ってきた気分だったので、嬉しくて、すぐにギターを出して唄わせてもらった。
チップをもらい、酒の追加を頂いてご機嫌だった。

そろそろ、とお勘定を済ませた常連のお客さんは

「まだ、飲んでていいから」

と、僕の前につり銭を置いて帰った。
お連れさんも喜んでくれた様子で、僕も満足だ。

料理の手も空いたママさんが煙草に火をつけていたので、僕は上機嫌で、もう1杯お酒を頼んだ。
だけどママさんは熱燗を用意するではなく、僕にひとこと言った。

「ミユキちゃん。あんたが唄うと他のお客さんが唄いにくいんだわ」

とっさに、すみません、と笑って謝ったが、ママさんは冷たく続けた。

「うちもカラオケ1曲200円、商売でやっとるけんね。営業妨害だが」

僕は黙り込んでギターをしまい、そのうち出された熱燗を一気に飲んだ。
気付けば後ろでは、カラオケの本を持て余している団体がいた。

ご馳走様、と小さく呟いた僕に、ママさんがお勘定を書いて渡した。
1500円。
僕はその代金を払い、申し訳ない気持ちで、カウンターに乗ったままの頂いたチップを置いて出ようとした。
するとママさんは怒ったように「そげな事、言うちょらんが」と、金をまとめて僕に手渡した。


雨の中、僕はトボトボ歩いた。
自分が、情けなかった。
バカさ加減に気付かなかった自分が悔しくて、どこまでも歩いた。
来た事もないような遠くの、公園の公衆トイレの広い個室に新聞紙を広げて、ずぶ濡れのまま寝た。
一気に飲み干した熱燗が、胸の中でずっと燃えていた。


それからどれくらい経ったろう。
数年後、僕は改めてその時のお詫びをするため「かなこ」さんへ行った。
ママさんは変わらない風情で、あらいらっしゃい、と招いてくれた。
常連の方も、相変わらずだった。
姿の見えない嘉山さんの事を尋ねると、糖尿で長い事入院しているという。

しばらく静かに飲んでた僕にママさんが

「久しぶりに唄えばええだが」

と笑顔で促してくれたが、僕にはもう、断ることしか出来なかった。
ただ、結局は自分から謝れなかったが、やっとあの日の酒が胃に落ちた気がした。



あれから出雲でいちばん変わったものは、オッチャンのラーメン屋台かも知れない。
小さかった屋台はしっかりと大きな骨組みで囲まれ、隣にはテーブルとイスが並んでいる。
オッチャンは変わらず、いつも寡黙にラーメンを作り、丼を洗い、仕込みを続けている。
相変わらずの大阪弁だけど、出雲の町に愛されている。

決してでしゃばる事なく、『おっちゃんラーメン』の看板だけが夜風に吹かれている。









Googleマイマップ「西高東低~南高北低」http://maps.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&hl=ja&msa=0&msid=117155757855294201939.0004585263f0a10720fca&ll=35.572449,132.670898&spn=2.086457,3.526611&z=8


作中、承諾を頂いてない一部の固有名詞を脚色しています。
ご了承ください。