津 その2

その2どころか、書こうと思えば3でも4でも際限なく飛び出す津での話。
それでも前回の予告どおり、ここは津のアニキの話を少々。

少々・・・。
いや、無理か。
何せ、話題が尽きないから。
なので、馴れ初めでも話しておこう。

津での初日、ラウンジ・ジュネスさんにて営業を終えた事は前回に書いた。
話は、そこからになる。
楽しく飲んで唄わせて頂き、Kビル前で再びギターケースを開いているところに話しかけてきたのが、ごっつい顔の尾上さんだった。
えらく興味津々の顔つきで

「自分、津の人間ちゃうやろ? へえ~、ここで唄うん? いつまでおる?」
といった具合。
出会いから今も変わらず、言いたい事だけをマシンガントークで畳み掛ける

そんな尾上さんの口癖は 「聞いて!」 だ。

だから、その日もやっぱり言いたい事だけを熱く語った。

「明日、近くでな、俺らライブやんねやけど、けえへん? いやいや唄うてよ、な!」
彼の暑苦しいほどの勧誘に折れるまでもなく、そうでなくてもこの街でもう少し唄って行こうと思った矢先だったので、僕は不案内な土地柄、場所をよく聞いてから承諾した。
連れの女性は 
「そんな急に言うても迷惑やん」 と、彼を制していたが 「いえいえ、出会いですから」 と、僕は約束した。

朝の10時くらいに集まるというので、昼間のイベントだろう。
今晩を、昼間に過ごした野外舞台で寝転がって過ごせば、どうやら会場は遠くなかった。
僕は1時過ぎまで唄い、荷物をまとめた。
深夜だというのに、寝ぼけたようなセミの声を聞きながら、コンクリートのステージ上で眠った。
ひんやりとした感触が心地良いが、明日の朝、背中は痛いだろう。



夏の早朝なので陽は早くから照り付ける。
汗ばんだまま目覚め、気が付けば数日風呂にも入ってない僕だったので、せめてもの礼儀として体をキレイにしたかった。やっぱり、背中も痛い。
ただ、蚊には、それほど刺されていない。これは、夏場の野宿でラッキーというべきだった。

新しい着替えは底を突いていたが、公衆トイレの水道で体中の洗える場所だけはタオルでゴシゴシ洗って、ついでに長い髪もグシャグシャに洗って準備を整えた。
その光景は、海辺やキャンプ地でなら様になるのだろうが、街中の公園ではちょっと目立つ午前6時過ぎ。犬を散歩させていたオバさんの視線が、僕の狭い背中に刺さる。
それでも

「おはようございます」と挨拶すれば「おはようございます」と返ってくる、この嬉しさよ。すると

「これ食べる?」
とオバさんが菓子パンを差し出したので、恐縮しながらも頂いた。
時々、電車で隣り合った方や道を尋ねた方など、特に年配の方から頂き物をするのだが、いったい、どういう基準で人を選んでいるのだろうかと不思議に思う事がある。
ある時

「たまに、その辺のオバちゃんから飴とかミカンとかもらうじゃん」
という僕の何気ない一言に、知人は

「それはない」

と事も無げに言い切った。
ないのか?

「よく道を尋ねられる」とか「よくアンケートに引っ掛かる」とか、声を掛けられやすい人がいるけれど、そういうのと同じなんだろうか。
もし、物を頂きやすい人というのがいるなら、僕はそっちの方だと思う。

午前も8時を回り、更に陽が高くなってくると、今日も1日暑い事が予想された。
これなら、さっきTシャツを洗って干してても乾いたんじゃないかと悔やまれた。
しかし、手で絞った衣類の乾かなさを僕は知っているつもりだ。
もしもTシャツ1枚をあと2時間で乾かそうと思うなら、延々と手に持って振り回し続けなければならないだろう。
その作業でくたくたになるし、何より、朝のシャワータイムより目立つ事は受けあいだ
東京の旅ミュージシャンは、車のドアにタオルを結んで走りながら乾かしていたっけ。
なるほどと思ったが、あれも排ガスにまみれそうだな。

暑さもあったが、時間を潰す作業もなくなったので、コンビニを物色に歩いた。
この街で、いちばん最初に入ったコンビニだ。
道中、その対面に本日の会場と思しきお店の看板が見えたので、なんだこんなに近くなのかと気が抜けた。
昨夜の尾上さんが一生懸命に地図を書いて説明してくれた場所は、彼の

「いや、近いねんけどな」
という言葉とは裏腹に、天竺への道のりほど遠く感じられていたからだ。

知らない街で道順を説明されるというのは、心細さも手伝って、どうにも距離感がつかめない。

会場が分かったので、後は安心だ。
僕はコンビニでお茶のボトルを買い、さっき頂いた菓子パンを頬張った。
こんな時、不健全で有名な旅唄いは、朝から缶ビールなんて飲んだりするのだが

「まあ、ちょっと唄ったら、後はビールでも飲んでて」

という、やはり昨夜の尾上さんの言葉を信じたからだ。
駄目なヤツだ。

指定時刻の10時にはまだ時間があったが、僕は会場になるお店へ到着していた。
「さわ」さんというスナック営業のお店だが、場所を借りたという。だから、機材からアンプからを搬入しないといけないらしい。
誘ってもらったんだから、そのくらいは手伝わせてもらう。
僕は参加したイベントは、なるべく最初から最後まで居合わせたい。

しばらく手持ち無沙汰に煙草を吹かしていると、車が1台やってきた。尾上さんだった。
早いな~! と言われながら、挨拶を交わす。
本日の演奏メンバーも一緒だ。
昨夜、尾上さんと一緒だったキーボードのサツキさん
それから、ギター・ボーカルのユウコちゃん
大人しそうな女性二人に、ごっつい野郎が1人加わって、『文音(あやね)』というバンドだという。

会場になるのは階段を上がった2階で、機材セッティングは当人達の都合があるので任せて、僕は更に集まりだした手伝い兼お客さんたちと荷物を運び入れ、椅子を並べ、窓に遮蔽用のアルミホイルを貼った。
アルミホイル作業が気に入った僕は、1人でひたすら、その作業を続けた。
まだ知人と呼べる人はいないし、雑談の糸口も少ない。
黙々と作業を続ける事でしか、皆に認めてもらう術が僕にはなかった。
3人のミュージシャンが音合わせを続ける中、暗幕の隙間から漏れる光をさえぎるため、窓にアルミホイルを貼り続けた。
そんな作業のせいあってか、集まった方々も僕に話しかけてくれ始めた。

なのに、だ。
作業がひと段落したところで挨拶がてらの缶ビールを開けた瞬間、僕はいつものお調子者になっていた。駄目なヤツ。
ともあれ、尾上さんの知人は誰も温かい人達で助かった。



お陰で、緊張しがちなライブ演奏も事なきを得て、反応は上々だった。
まあ、そんな感じの出会いだった。


それから津が気に入った僕は、年に数回、春、秋の辺りを狙って唄いに出掛けていた。
更には、どこで唄っていても難しい正月三が日を、無理やりに津の飲み屋街で唄っていた事もある。

「正月なんて、神社の入り口でも行けばあっという間に稼ぐだろ?」

とは言われるのだが、こちとら夜が専門商売。
しかも、そんな日にそんな場所で唄ったりしたら、きちんとしたくじ引きで営業してる玄人さん達がただじゃおかない雰囲気。夜の街なら見逃される事も、昼日中というのは勝手が違う。

正月と限らず、真冬はどこにいても大変なもの。
どこで唄おうと、実入りと寒さの厳しさで挫けそうになる。
だから、ひたすら動き続ける。
宿泊費に満たない飯代を移動費につぎ込む代わりに、電車でひたすら眠った。
始発から電車で眠りこけて同じ路線を何往復もするなんて迷惑極まりない行為なんだろうが、死にたくなかったというのが現状だ。

好きで選んでいる道。
弱音は吐きたくないが、非常手段で生き延びる事は多々ある。


その翌年から年末は東京のライブハウスで過ごす事にしているが、直前は大抵、津にいる。

だから大晦日に
「良いお年を」 と言った相手に、年始早々から出会ってしまうと
「東京、行ってないの!?」 と驚かれる。

行ってるのだが、1~2日で戻っているのだ。
拠点を決めて短期間にあちこち動く僕は、いつも

「実は、ここに住んでるんだろ? 旅してるとか嘘はつくなよ」
とお叱りを受けたりもする。
多くの人は

『昨日は広島で唄っていて、今日は三重にいて、明日は静岡で唄うつもり』

といった、僕なりの旅唄いのやり方が理解できないのだ。
どうしても、金持ちのボンボンだと思われる節がある。


気軽な身軽な旅唄いのように見えて、その裏には、留まるより動いた方が楽な事実があり、数日の雨を避けるために、せっかく昨夜稼いだ金を全額つぎ込んで、数百キロの旅をする事だってある。
人間、生活において何を優先するかだけだ。
僕にしてみればデザインに飽きたからと、新しいキャリーケースを買う人達は理解不能なのだ。
しかしそれもまた経済を回している事実。


さて。
津のアニキの話が反れてしまった。

津のアニキ・尾上さんは、僕と出会ってからというもの、度々一緒に路上で唄っている。
元々が長渕剛好きで、嘘か真か、僕と同じ場所で路上演奏もやっていたという。
それはそれで構わないのだけど、僕がついつい酒を飲みながら唄うという、これまた見る人から見ればけしからんスタイルでやってるものだから、酒好きには定評のある彼も付き合わないはずがない。
昼間のたこ焼き屋に入って、3人で1万円払ってしまった事もある。もちろん、ほとんどが酒代だった。
しかも彼と来たらその辺の飲み屋は飲み尽くしているような男で

知り合いの若いママさん連中に平気で差し入れを頼む。

挙句、見かけだけはストイックな雰囲気で演奏を行いたい僕の周辺には

飲み屋から直の水割りと
飲み屋から直の灰皿と
飲み屋から直の乾き物と
ギターを持った酔っ払いが2人並ぶ

という、恐ろしい光景になってしまうのだ。

「ちょっと尾上さん・・・これはやり過ぎじゃないん?」

と制止しても

「いい、いい。皆、知り合いやに」

と聞く耳を持たない。
しかも、多少は知らないお店の方が驚く様子を見せながらも、津の飲兵衛たちはその光景に対して寛容なのだ。
同じビルのお店から困った顔をされる事があっても

『よそ者が土足で上がりこんできてやりたい放題やってる』

というのは、尾上さんがいる限り通用しない。

だから、僕一人の演奏の時、その目は冷ややかに突き刺さる。




ただし。
それでも、僕は彼と唄うのが好きだ。

実は、僕の方も年上の彼に慣れ過ぎたのか、酔っ払い同士つまらない喧嘩で別れてしまう事がある。
だけど、数ヵ月後にまた津で唄っていると、どこからかボロボロのギターケースを抱えた尾上さんがやってきて

「いつ来たん? 久しぶりやん」

と、いたずらっぽく笑うのだ。
前回の喧嘩の気まずさに渋い顔をしてる僕に

「まあ、乾杯しよや!」

と、コンビニでいちばん安い酒を手渡し 「さあ、稼ぐで~」 とか言いながら、ドッカと隣に座り込む男なのだ。
僕の分まで手土産を持ってきておいて、何が 「いつ来たん?」 なものか。
実は僕が来たらいつでも連絡するよう、後ろの店の知り合いに頼んでたらしい。


そんな津に、今年はついに出向かなかった。
昨年の盆に行ったきりだ。
生活の仕方と拠点が変わったせいで、動きが取り辛くなった。

来年の1発目は、津にするか。。








Googleマイマップ「西高東低~南高北低」


http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&ie=UTF8&msa=0&msid=117155757855294201939.0004585263f0a10720fca&ll=35.090698,136.400757&spn=0.95288,1.755066&z=9

津 その1

夜を適当に過ごす事が難しい町だった。

日本一さみしい県庁所在地として名高いらしい、三重県は津市での事だ。

今時、大抵の町に行けばネットカフェや24時間体制の飲食店が多い中、津は夜の闇を捨ててまで経済発展に走ろうとはしていないようだ。
実際は、ニーズの問題なんだろうけど。

今はもう、そう困る事もない。
イカガデスカ~のマサージ屋さんが、マサージの後に仮眠させてくれるからだ。
マッサージはいらないのだが、とりあえずなんか悪いので、30分だけ頼む。
これはあくまで顔見知りになったから世話になってるだけで、宿泊施設として利用してるわけじゃないので悪しからず。
そうなると、風営法に引っかかる。保健所か?

しかしだ。
最初の頃は大いに困ったものだった。

何せ、ビジネスホテルの門限が、0時なのだから。

0時なんて言えば飲み屋路上演奏の人間には稼ぎ時の時刻で、出張のビジネスマンだって、ちょっとお酒がはずめば過ぎてしまう時刻だ。
僕だってビジネスで遅くなるんだから少しぐらい柔軟に対応してくれてもいいはずなのに、そのホテルときたら、たった30分過ぎてインターホンを押すだけで、誰も出て来やしない。
客が帰ってないのは分かってるはずなのに。
5分ぐらいインターホンを鳴らし続けても誰も出ないものだから、ちょっとイラッときて、入り口のガラス戸を蹴ってみた。

割れた・・・

いや、割るつもりなんてサラサラないのに、苛立ちが足先にこもってしまい、ちょっと加減が出来なかった。
それは僕が悪いとしてもだ、その宿直だか従業員、なんとガラスが割れるや否や5秒で飛んで来た。

ならすぐに、インターホン出んかい!!
ザマミロって、クスクス笑っとったんかい!!

その後、割れたガラスは保険にも入ってないと言うし、僕も手持ちがないしで、とりあえず翌日、知り合って間もない現地の知人に相談して、なんとか対処してもらった。
その後は、絶対にそこのホテルには泊まらない。

それから後は、小さな旅館に泊まるのが定番になった。
名を、夕凪荘という。

そこも最初は

「帰りが遅くなるんです・・・」という僕に

「うちは23時が門限なんですよ」と渋られたのだが

僕が「仕事でして」と言うや

「まあ! お仕事なら、どうぞどうぞ!」

と、宿のお母さんも恐縮してくれるほど。
僕の方も無理をお願いしてる身なので、さらに恐縮して、お互いにペコペコと頭を下げ合った。
人間、売り言葉に買い言葉より、魚心と水心でありたいものだ。


そんな魚心と水心が様々に絡み合い、僕の旅唄いにおいて最大の訪問地である津との縁は始まった。

ちらっと書いたが、津市での演奏場所は大門という、アーケードのそばに並ぶ飲み屋街だ。

アーケードにおける大門というのは旧名であり、本当は『だいたて商店街』が正式名称らしい。
けれど地元の誰も、ほとんどがそう呼んでない様子だ。
下りたシャッターが目に付く商店街ではあるけれど、僕がマッサージ屋さんを起き出す頃には元気な朝市が並び、決して商店街として機能していない事はない。
周囲はやっぱり市内最大の繁華街だし、だけど細い路地を抜けると
日本三大観音像(最近知った)が置かれた津観音寺があったり
手狭な中にも魅力はいっぱいの町だ。

ちなみに名古屋名物になっている『天むす』は、この界隈の小さなお店が発祥だ。
愛知を挟んだ静岡の名物であるウナギも、消費量でいけば、ここ津市が全国一らしい。
そういや結婚披露宴に呼ばれて唄った時も、うな重を出されたっけ。
それから、誰もが1度は食したベビースターも作ってる。
なんだかこう書いていると、僕は、津の観光大使になれそうな気までする。

しかし、なんと言っても街の魅力を語るのが旅唄いとくれば(手塚幸とくれば)、話題は飲み屋街になる。
たかだか広島から流れ着いた無名のギター弾き語りに、この街は最大限の魚心で応えてくれた。

一番のきっかけは、場所に尽きるだろう。
アーケードを23号線から横切ると、宵の口ならずとも見えてくる、チカチカと光る立て看板。
立体駐車場の脇には、一段高くなった敷地に3階建ての(イニシャル)というテナントビルがある。
毎回、初上陸地での場所探しに悩む僕としては、珍しく「ここしかない」と思わせた場所だ。

2004年が最初の年だったろうか。その当時、大門のアーケードにも弾き語りの若い子はいたけれど、飲み屋街の敷地に入り込んで唄う人はいなかった。
ただ、その場所で知り合った金丸君という旅唄いも、やはり同じ場所をチョイスしていた。しかもその後に訪れた飛騨高山で現地の方に聞いたのだが、どうやら彼はそこでも僕の座った場所で演奏していたらしく、飲み屋路上を唄う人間の勘とは似たようなものなのだ。
ちなみに金丸君は日本を一周した挙句、本を出版している。
頂いた本は『青春の放浪』というタイトルだった。


とにもかくにも僕には現在、津といえば大門、大門といえばKビルという図式が出来上がっている。
初めて訪れたのは、東海道を西へ、東京から広島へ戻る旅の途中だった。
聞き覚えがあるだけの三重県。
失礼だが大都市とは聞いていなかった僕は、真っ先に県庁所在地である津に降り立った。
そして、駅のロータリーから二つ目の信号が年中点滅しているこの街に、すでに安心感を覚えた。
7月昼間の繁華街をのんびりと歩き回り、その時はまだ日中の過ごし方を上手に知らないため、先に書いた観音寺の横のだだっ広い草むらに広がる、子供の絵が書き並べられた野外ステージの上で日陰に寝転び、蚊に刺されながら汗だくで夜を待った。
唄うなら、あそこだと決めていた。

午後9時過ぎ。
いつも通り、初めての街に着いたら小銭だけの僕。
持てる限りの小銭をふりしぼった缶ビールを手に到着したKビルには、スナックや飲食店の看板が灯っていた。
雰囲気といえば、少し静かだけれど逆に僕の好みな寂れた空気。
よし、と、いつもなら空元気のセリフを、この時だけは自然に口に出して僕はギターケースを開いた。

飲み屋さんばかりのテナントなので、やや人の出入りは多い。
だけどそれも、10分に1回くらいのペースだった。
エントランスはそのまま階段に繋がるKビル前だったが、入り口はすべて向かって左側にあり、僕が唄う右手の外周は全く通行の邪魔にならないのが助かる。
迎えのタクシーを少々ジャマしてしまうのが申し訳ない。

この場所で唄っているミュージシャンは珍しいのか、通行人はほとんどが僕に目を留めて行く。
世は、どんな街でもストリートミュージシャンが大手を振って唄う時代。どれほど声を張り上げて唄っていても半数が目も合わせず通り過ぎるばかりの街で、大門は僕に新鮮だった。
そして最も嬉しい事は、怪訝な目つきで睨んでいく訳ではなく、ものすごく笑顔で好意的だった事だろう。
路上で唄うミュージシャンは他人の目に曝され、そしてその視線に耐えられなければ演奏は出来ない。
あらゆるストリートミュージシャンが無遠慮に投げられる視線に耐え、それがもしも笑顔であれば、あらゆるミュージシャンはまた、感謝の思いに溢れる。
それは、投げ銭が入らなければ生きていけない僕のような身であろうとも、同じ事だ。

投げられる視線にも笑顔を返す余裕が出来て1時間ほど唄っていると、右手のアーケード方面から、男性の集団と、着物姿の女性が1人、賑やかに近づいてきた。
どうやら背にしたビルの、ママさんとお客さんの集団らしかった。
1人の人懐っこいオジサンが、すでに良い感じの酔いで僕に話しかけてきた。

「おっ、流しのおるやなかね!」

言葉は、九州弁だった。
ほらほら困らせんのよ~、と明るく近づいてきたママさんも実は熊本の生まれで、なんと今夜は九州人会の集まりだという。

広島からの旅唄いも、元を質せば九州の端っこの生まれ。

こういう時には躊躇している場合じゃない、

「実は僕も・・・」

と切り出せば、後はビルの3階に出張営業は決まり、あちこちのテーブルを回っては飲んで唄い、初め良ければなんとやらの逆をゆく、津市の初日にして大酔っ払いが出来上がった。いや、頂いたチップでゆけば全て良しだったけれど。

これが、ラウンジ・ジュネスさんとの出会いだった。
この後、僕は大門に唄いに来る度にジュネスさんに世話になるのだ。
それは大晦日のスタッフの忘年会だったり、毎回頂いてる差し入れのウイスキーロックだったりと、挙げ連ねればキリがない。
なので1つだけ、僕がすごくすごく笑ってしまい、ちょっとだけ涙ぐむ、今も新鮮に覚えている話をしたい。

その年の大晦日、路上の焼き芋屋さん(この方とも仲良くなった)と共に、ジュネスさんの忘年会へ招かれた僕は、散々に飲み食いさせてもらい、そしてお返しに唄わせてもらった。
Yさんというスタッフの方がものすごい長渕剛のファンで、僕はオリジナルなんてそっちのけで、とにかく長渕剛ばかりを唄わせてもらった。
その時に僕は、整理整頓の出来ぬ荷物から、思わぬ落し物をしてしまっていたのだ。
じゃあまた来年は暖かくなったら来ぃや! と言うママさんにお辞儀をして、言葉通り、僕が津を再訪したのは翌年の春だった。

長い長い、寒い冬を越えて訪れた津市・大門。
すっかりコートも脱げて身軽な僕は、お久しぶりです! とまずはジュネスさんへ挨拶に行った。
すると、去年のままの笑顔で迎えてくれたママさんが

「お~! お帰り~! あ、そういえば去年、忘れ物しとったに」

と言いながら店の奥へ消えた。
しかし、僕には覚えがない。
そこまで大切なものだったら気がついているはずなんだけど、と思っていると

「これぇ、酔っ払って忘れたろ!」

と、小さな包みを渡してくれた。
それでも思い出せない僕が中を開けると

そこにはギターの弦が入っていた。

しかも、錆びて不要になった、交換した後のギターの弦が。

包みには 『長渕剛 忘れ物』 とメモが貼られていた。

「また、しっかり稼ぎや! 後で差し入れ持ってってやるに!」

僕は笑顔とでかい声で、頑張ります! と答え、やがて定番になる場所へと向かった。
数分後にお店の女の子から、ウイスキーのなみなみと注がれたグラスが運ばれてくるのだけれど、それもやがて定番になり、大賑わいでグラスを割ってしまった翌日からは、マグカップが僕の専用グラスとなるのだ。
『長渕剛様』 のメモは今もきっと、乱雑にまとめられた荷物のどこかに紛れている。



そうそう。
津市の初日、九州人会の集まりで唄った後に話を戻そう。

僕は酔っていたけれど深々と頭を下げ、九州人会のオジサン達とママさんにお礼を述べて表に出た。
ひとまず酔いを醒まそうと夜風を浴び、とりあえずする事は他にないのでギターケースは開けていた。
するとそこに、僕とそう変わらない年の男女が現れ、リクエストするのだった。
『津のアニキ』と苦笑いを込めて呼ぶ事になる尾上さんとの初対面だったのだが、この人の話は恐ろしく長く大量になるので、次回に持ち越そう。








Googleマイマップ「西高東低~南高北低」

http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&ie=UTF8&msa=0&msid=117155757855294201939.0004585263f0a10720fca&ll=35.090698,136.400757&spn=0.95288,1.755066&z=9

松山

広島に在住(必ずしも家があった訳ではないが)しているにも関わらず、四国にはなかなか渡らない旅唄いだった。

よく唄いに出ていた呉からフェリーで2時間ほどの距離なのだが『いつでも行ける距離』という気楽さと、逆に『海を渡る』という言葉の重みに打ち負かされ、気がつけばたかだか瀬戸内海を渡る決意に4年をかけてしまっていた。

広島の知人複数が「四国、良かったですよ~」と言うのを、フ~ンと聞き流すだけの4年にピリオドを打つべく、僕は2003年に海を渡った。
重ねて言うが、たかだか瀬戸内海である。

ところで、これを書きながら「あん時のフェリーってなんぼだっけ」とネット検索していたら、片道1600円だった『呉・阿賀~松山・堀江』の航路は2009年6月で
なんと高速ETC1000円の功罪にて廃止されていた。
1600円という片道運賃が廃止当時である事を考えると、僕が使っていた当時は、もう少し安かったのではないかとも思う。
なんにしても、同じ交通手段を使っては二度と旅が出来ない事になった。


旅唄い初となる松山市の上陸地は、堀江港だった。

『みなと食堂』なんていう安直でありきたりな古い看板が見えて、僕はいつもそんなものに嬉しさを覚える。どんなに有名な観光名所よりも、人の生活が息づいている実感に安心する。
初めての町だけれど、ここも日本なんだと、きっと音楽が大好きな人がいるんだと。

JR予讃線で駅をいくつか南へ下り、松山に到着した僕を迎えたのは、やはり城下町の佇まいだった。
標高132メートルの勝山(城山)山頂には言わずと知れた松山城があり、城山公園の堀を西堀から南堀へ黙々と歩いた。広い、閑静と呼んでもいいほどの道路を、ゆったりと路面電車が走っていく。堂々として、なおも微笑ましい光景だ。
同じ路面電車でもこれが広島の場合は、市街地の込み入った大通りを過ぎると、途端に住宅地をこれでもかとすり抜けていくので、どことなくせせこましい感じがする。嫌いじゃないけど。

すると次に僕を迎えたのは打って変わった喧騒で、伊予鉄道の松山市駅に近づくと、途端に松山は大都市の顔を見せた。
松山市駅は、JRを差し置いて四国一の乗降者数を誇るらしい。
道後温泉を有するこの町は、観光地としても有名。
『城下町』『温泉街』なんて、日本人をたぶらかすには持って来いの町じゃないか。

ついでに言うと、松山は『文学の町』でもある。
ちょっと前に司馬遼太郎の『坂の上の雲』を読み終えていた僕は、実はそれも手伝って松山へ渡ってみようと思ったのだ。
その割に、文学めいた行動は何ひとつ行わなかった。
飲んで唄っているだけという、文士崩れみたいな行動だった。


松山の紹介も尽きないのだけれど、前回の続きを思い出した(忘れていた)。

市内の大きな繁華街である2番町だか3番町だかで唄っていた僕は、肉まん売りの中国籍らしいお姉さんに冷たい水を差し入れられてウキウキしていたという話だ。

その前にひとつ、エピソードを追加しよう。

時系列でいくと、その前日、つまり初日には少し離れた別の所で唄い、嫌な思いをしていたのだ。
初めての街では緊張のあまりに誰も通らないような薄暗い通りで唄っては通行人を驚かす事の多い僕なのだが、松山初日もそうだった。
天候のチェックを怠っていた僕は、まず初日の夜に雨に遭った。
ポツポツと、どうにも止まない雨の中で、繁華街の中心には程遠い街外れのテナントビルの下で唄っていた。屋根が広かったからだ。
傘を差した通行人は、どう対処して良いのか理解しかねるといった気まずい視線で過ぎていくばかりだったが、テナントにセレブなお店が多かったのか、ビルを出入りする社長さん(注:手もみ発言)やお姉さん(同)には、すこぶる反応が良かった。
味を占めたので、天候が回復した翌日も、午後9時あたりから、その場で唄っていたのだ。
しかし、苦情が出た。

苦情は、車道を挟んだ、向かいのお寺からだった。
最初、渋い和装のお父さんが悠然と近づいて来るのを見た僕は
「あらまた社長さんかしら」
と、媚びた笑みで迎えた。
すると無表情に

「あなたのせいで、私の娘が非常に苦しんでいる」

と言われ、話が読めずにいると、更に

「あなたは昨夜もここで歌を唄われていましたね。なかなかにお上手で素敵な事だと思います。でも、私の娘は、あなたのせいで眠れなくて困っているのです」

と補足説明があった。
なるほどそれはいけない、と合点がいったので謝って早々に撤去しようと思ったら

「あなたの音楽は素晴らしい事だと思います」

と、またこちらを気にしてか、帰り支度の僕に言葉をかけてくれた。
いえいえ僕も初めての街で要領が悪かったです、申し訳ありませんでしたと詫びた。
しかし、お父さんはまだ言うのだ。

「娘はあなたのせいで、薬を飲まなければ眠れないのです」

・・・・・・。

エンドレスと思われたが、15分で帰してくれた。
こちらが悪いので言い返す事は出来ないのだけど、それにしても、その、なんか、長かった。

そういった事があり、僕は前回記述の通り、苦手な大通りでの演奏に踏み切ったのだった。
結果的には、それが一番で、苦情も出難い訳だ。
最初からそうすればいいのに、僕もまた、なんか、それにしても、だ。


よし。本題に入ろう。
中国籍のお姉さんにねだられてデヘヘな僕は、しばらく唄っていた。
空気をモノにした感じが、僕の調子も上げていく。
時刻も0時を回るかそこらの、松山最高潮な夜だ。
信号待ちの人から投げ銭が入り、肉まんを待つお客さんがリクエストをくれたりと、僕のギターケースも賑やかになってきた。
そこにだ。僕の演奏には似つかわしくない、若くてちょっとカッコイイお兄さんが2人近づいてきた。

「あの、お店で唄っていただけたりしますか? ここを通られたお客様が、聞いて欲しいとおっしゃっているので」

なんと、営業の誘いだった。
こんなカッコイイ黒服のお兄さんがいるんならホストクラブだろうかとか考えながらも、断る手はない。
是非お願いしますと答え、僕はまた荷物をまとめた。

案内されてすぐ目の前のビルへ向かうと、2階へと階段を上がるようだ。
階段の手前で、僕は少し違和感を感じた。
生地の薄い、ヴェールのような大きな布切れが、所狭しと行く手を阻んでいるのだ。
僕の浅い経験値によれば
これはエッチ系のお店じゃないのかと
頭に黄色のシグナルが点滅し始めた。そんな所で、演奏なんか必要なのか。

しかし引き返せない僕は、それでも丁寧に案内する2人のイケメン(当時は言わなかったが)に従うしかなく、明らかに桃色な字体で書かれた店名を記憶する暇もないまま、ご入店した。

薄暗い店内は、上ってきた階段と同じ薄布がカーテン状に仕切りを作り、そのひとつの席に
僕は生のセーラームーンを見つけた。

これは  噂の女子高生パブか…。

頭のシグナルが、真っ赤に点滅した


が、演奏のお願いはお客さんから確かに入っていたため、ステージ代わりになる場所もなかったけれど、キャッシャー前という不自然な位置で、明らかに場の空気を読めない長渕剛(リクエスト)を演奏し、足元の灰皿に千円札を入れられ、極度の緊張のために2回も弦を切り、繋ぎ、茶を濁し、散々で逃げ帰った。
まあ、それでもお兄さんに「ありがとうございました」とは言われたが。

という事で、恐らく僕は人生で後にも先にもないだろうという、女子高生パブでの演奏を経験した。
呉・松山フェリーと共に、これは忘れられない思い出だ。


その翌日に、昨晩唄っていた場所が関係者によって防護策を講じられていたりと、なかなか一筋縄ではいかなかった松山だが、最後にもうひとつエピソードを。

翌年に再訪した松山で、夜の路上もうまく行かずに昼間の演奏を余儀なくされた僕は、地下道でギターを出していた。
昼というのは本当に僕のエネルギーを奪い、それでもせめて広島へ戻る交通費は、と頑張っていた。
夏の盛りで、吹きぬける風もほとんどなく、汗が額を流れた。
1人、また1人、と、年配の女性を中心に少しの小銭をいただき始めて1時間。
もっさりと荷物を背負った眼鏡のギター弾きが脇に立った。

「ええ声してはりますねえ」

とか何とか言っただろうか。
少し話をすると、彼もまた旅の途中であり、他県からの瀬戸内流れ旅真っ最中らしい事を聞いた。

僕は普段、滅多な事では旅人や路上ミュージシャンと交流はおろか言葉も交わさない。
そんな僕が、なぜか記憶のどこかで

「思い出せ、思い出せ、こいつは知らない奴じゃないぞ」

と叫んでる。

実は向こうも何かを感じていたらしく、お互いに探り探り話していたが、僕の方が先に思い出した。
3年前あたり、広島路上で知人に紹介されて一緒に唄った[ひ](そんな名前なんです)だった。
その時は大事な譜面のファイルに缶ビールを倒してすんませんでしたとか挨拶して

「次は北国で会おう」

と意味不明な約束を交わして別れた。
実際には彼の本拠地である三重県で会ったりするのだが、その後、今に至るまであちこちで再会しては唄っている、数少ない古くからの友だ。
彼=[ひ]~ちゃんも、その時の旅の事をブログに書いてるので、是非とも読んで欲しい。

[ひ]暮庵 ストり旅日記書庫【'04夏!ストり旅日記 -瀬戸内開眼編-】
http://hp.kutikomi.net/higurashian/?n=column4&no=5


[ひ]~ちゃんとの再会がエネルギーをくれたのか、その後、昼間のチップとしては破格の5千円札を頂いた僕は、夜を待たずに松山を後にした。
[ひ]~ちゃんも、少し離れた地下道で唄っていたらしいが、僕にメインストリートを奪われた彼は散々だったようである。
そのお返しは、後に四日市でのモツ鍋になる。







Googleマイマップ「西高東低~南高北低」
http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&ie=UTF8&msa=0&msid=117155757855294201939.0004585263f0a10720fca&ll=33.894357,132.739563&spn=0.503845,0.877533&z=10