津 その1

夜を適当に過ごす事が難しい町だった。

日本一さみしい県庁所在地として名高いらしい、三重県は津市での事だ。

今時、大抵の町に行けばネットカフェや24時間体制の飲食店が多い中、津は夜の闇を捨ててまで経済発展に走ろうとはしていないようだ。
実際は、ニーズの問題なんだろうけど。

今はもう、そう困る事もない。
イカガデスカ~のマサージ屋さんが、マサージの後に仮眠させてくれるからだ。
マッサージはいらないのだが、とりあえずなんか悪いので、30分だけ頼む。
これはあくまで顔見知りになったから世話になってるだけで、宿泊施設として利用してるわけじゃないので悪しからず。
そうなると、風営法に引っかかる。保健所か?

しかしだ。
最初の頃は大いに困ったものだった。

何せ、ビジネスホテルの門限が、0時なのだから。

0時なんて言えば飲み屋路上演奏の人間には稼ぎ時の時刻で、出張のビジネスマンだって、ちょっとお酒がはずめば過ぎてしまう時刻だ。
僕だってビジネスで遅くなるんだから少しぐらい柔軟に対応してくれてもいいはずなのに、そのホテルときたら、たった30分過ぎてインターホンを押すだけで、誰も出て来やしない。
客が帰ってないのは分かってるはずなのに。
5分ぐらいインターホンを鳴らし続けても誰も出ないものだから、ちょっとイラッときて、入り口のガラス戸を蹴ってみた。

割れた・・・

いや、割るつもりなんてサラサラないのに、苛立ちが足先にこもってしまい、ちょっと加減が出来なかった。
それは僕が悪いとしてもだ、その宿直だか従業員、なんとガラスが割れるや否や5秒で飛んで来た。

ならすぐに、インターホン出んかい!!
ザマミロって、クスクス笑っとったんかい!!

その後、割れたガラスは保険にも入ってないと言うし、僕も手持ちがないしで、とりあえず翌日、知り合って間もない現地の知人に相談して、なんとか対処してもらった。
その後は、絶対にそこのホテルには泊まらない。

それから後は、小さな旅館に泊まるのが定番になった。
名を、夕凪荘という。

そこも最初は

「帰りが遅くなるんです・・・」という僕に

「うちは23時が門限なんですよ」と渋られたのだが

僕が「仕事でして」と言うや

「まあ! お仕事なら、どうぞどうぞ!」

と、宿のお母さんも恐縮してくれるほど。
僕の方も無理をお願いしてる身なので、さらに恐縮して、お互いにペコペコと頭を下げ合った。
人間、売り言葉に買い言葉より、魚心と水心でありたいものだ。


そんな魚心と水心が様々に絡み合い、僕の旅唄いにおいて最大の訪問地である津との縁は始まった。

ちらっと書いたが、津市での演奏場所は大門という、アーケードのそばに並ぶ飲み屋街だ。

アーケードにおける大門というのは旧名であり、本当は『だいたて商店街』が正式名称らしい。
けれど地元の誰も、ほとんどがそう呼んでない様子だ。
下りたシャッターが目に付く商店街ではあるけれど、僕がマッサージ屋さんを起き出す頃には元気な朝市が並び、決して商店街として機能していない事はない。
周囲はやっぱり市内最大の繁華街だし、だけど細い路地を抜けると
日本三大観音像(最近知った)が置かれた津観音寺があったり
手狭な中にも魅力はいっぱいの町だ。

ちなみに名古屋名物になっている『天むす』は、この界隈の小さなお店が発祥だ。
愛知を挟んだ静岡の名物であるウナギも、消費量でいけば、ここ津市が全国一らしい。
そういや結婚披露宴に呼ばれて唄った時も、うな重を出されたっけ。
それから、誰もが1度は食したベビースターも作ってる。
なんだかこう書いていると、僕は、津の観光大使になれそうな気までする。

しかし、なんと言っても街の魅力を語るのが旅唄いとくれば(手塚幸とくれば)、話題は飲み屋街になる。
たかだか広島から流れ着いた無名のギター弾き語りに、この街は最大限の魚心で応えてくれた。

一番のきっかけは、場所に尽きるだろう。
アーケードを23号線から横切ると、宵の口ならずとも見えてくる、チカチカと光る立て看板。
立体駐車場の脇には、一段高くなった敷地に3階建ての(イニシャル)というテナントビルがある。
毎回、初上陸地での場所探しに悩む僕としては、珍しく「ここしかない」と思わせた場所だ。

2004年が最初の年だったろうか。その当時、大門のアーケードにも弾き語りの若い子はいたけれど、飲み屋街の敷地に入り込んで唄う人はいなかった。
ただ、その場所で知り合った金丸君という旅唄いも、やはり同じ場所をチョイスしていた。しかもその後に訪れた飛騨高山で現地の方に聞いたのだが、どうやら彼はそこでも僕の座った場所で演奏していたらしく、飲み屋路上を唄う人間の勘とは似たようなものなのだ。
ちなみに金丸君は日本を一周した挙句、本を出版している。
頂いた本は『青春の放浪』というタイトルだった。


とにもかくにも僕には現在、津といえば大門、大門といえばKビルという図式が出来上がっている。
初めて訪れたのは、東海道を西へ、東京から広島へ戻る旅の途中だった。
聞き覚えがあるだけの三重県。
失礼だが大都市とは聞いていなかった僕は、真っ先に県庁所在地である津に降り立った。
そして、駅のロータリーから二つ目の信号が年中点滅しているこの街に、すでに安心感を覚えた。
7月昼間の繁華街をのんびりと歩き回り、その時はまだ日中の過ごし方を上手に知らないため、先に書いた観音寺の横のだだっ広い草むらに広がる、子供の絵が書き並べられた野外ステージの上で日陰に寝転び、蚊に刺されながら汗だくで夜を待った。
唄うなら、あそこだと決めていた。

午後9時過ぎ。
いつも通り、初めての街に着いたら小銭だけの僕。
持てる限りの小銭をふりしぼった缶ビールを手に到着したKビルには、スナックや飲食店の看板が灯っていた。
雰囲気といえば、少し静かだけれど逆に僕の好みな寂れた空気。
よし、と、いつもなら空元気のセリフを、この時だけは自然に口に出して僕はギターケースを開いた。

飲み屋さんばかりのテナントなので、やや人の出入りは多い。
だけどそれも、10分に1回くらいのペースだった。
エントランスはそのまま階段に繋がるKビル前だったが、入り口はすべて向かって左側にあり、僕が唄う右手の外周は全く通行の邪魔にならないのが助かる。
迎えのタクシーを少々ジャマしてしまうのが申し訳ない。

この場所で唄っているミュージシャンは珍しいのか、通行人はほとんどが僕に目を留めて行く。
世は、どんな街でもストリートミュージシャンが大手を振って唄う時代。どれほど声を張り上げて唄っていても半数が目も合わせず通り過ぎるばかりの街で、大門は僕に新鮮だった。
そして最も嬉しい事は、怪訝な目つきで睨んでいく訳ではなく、ものすごく笑顔で好意的だった事だろう。
路上で唄うミュージシャンは他人の目に曝され、そしてその視線に耐えられなければ演奏は出来ない。
あらゆるストリートミュージシャンが無遠慮に投げられる視線に耐え、それがもしも笑顔であれば、あらゆるミュージシャンはまた、感謝の思いに溢れる。
それは、投げ銭が入らなければ生きていけない僕のような身であろうとも、同じ事だ。

投げられる視線にも笑顔を返す余裕が出来て1時間ほど唄っていると、右手のアーケード方面から、男性の集団と、着物姿の女性が1人、賑やかに近づいてきた。
どうやら背にしたビルの、ママさんとお客さんの集団らしかった。
1人の人懐っこいオジサンが、すでに良い感じの酔いで僕に話しかけてきた。

「おっ、流しのおるやなかね!」

言葉は、九州弁だった。
ほらほら困らせんのよ~、と明るく近づいてきたママさんも実は熊本の生まれで、なんと今夜は九州人会の集まりだという。

広島からの旅唄いも、元を質せば九州の端っこの生まれ。

こういう時には躊躇している場合じゃない、

「実は僕も・・・」

と切り出せば、後はビルの3階に出張営業は決まり、あちこちのテーブルを回っては飲んで唄い、初め良ければなんとやらの逆をゆく、津市の初日にして大酔っ払いが出来上がった。いや、頂いたチップでゆけば全て良しだったけれど。

これが、ラウンジ・ジュネスさんとの出会いだった。
この後、僕は大門に唄いに来る度にジュネスさんに世話になるのだ。
それは大晦日のスタッフの忘年会だったり、毎回頂いてる差し入れのウイスキーロックだったりと、挙げ連ねればキリがない。
なので1つだけ、僕がすごくすごく笑ってしまい、ちょっとだけ涙ぐむ、今も新鮮に覚えている話をしたい。

その年の大晦日、路上の焼き芋屋さん(この方とも仲良くなった)と共に、ジュネスさんの忘年会へ招かれた僕は、散々に飲み食いさせてもらい、そしてお返しに唄わせてもらった。
Yさんというスタッフの方がものすごい長渕剛のファンで、僕はオリジナルなんてそっちのけで、とにかく長渕剛ばかりを唄わせてもらった。
その時に僕は、整理整頓の出来ぬ荷物から、思わぬ落し物をしてしまっていたのだ。
じゃあまた来年は暖かくなったら来ぃや! と言うママさんにお辞儀をして、言葉通り、僕が津を再訪したのは翌年の春だった。

長い長い、寒い冬を越えて訪れた津市・大門。
すっかりコートも脱げて身軽な僕は、お久しぶりです! とまずはジュネスさんへ挨拶に行った。
すると、去年のままの笑顔で迎えてくれたママさんが

「お~! お帰り~! あ、そういえば去年、忘れ物しとったに」

と言いながら店の奥へ消えた。
しかし、僕には覚えがない。
そこまで大切なものだったら気がついているはずなんだけど、と思っていると

「これぇ、酔っ払って忘れたろ!」

と、小さな包みを渡してくれた。
それでも思い出せない僕が中を開けると

そこにはギターの弦が入っていた。

しかも、錆びて不要になった、交換した後のギターの弦が。

包みには 『長渕剛 忘れ物』 とメモが貼られていた。

「また、しっかり稼ぎや! 後で差し入れ持ってってやるに!」

僕は笑顔とでかい声で、頑張ります! と答え、やがて定番になる場所へと向かった。
数分後にお店の女の子から、ウイスキーのなみなみと注がれたグラスが運ばれてくるのだけれど、それもやがて定番になり、大賑わいでグラスを割ってしまった翌日からは、マグカップが僕の専用グラスとなるのだ。
『長渕剛様』 のメモは今もきっと、乱雑にまとめられた荷物のどこかに紛れている。



そうそう。
津市の初日、九州人会の集まりで唄った後に話を戻そう。

僕は酔っていたけれど深々と頭を下げ、九州人会のオジサン達とママさんにお礼を述べて表に出た。
ひとまず酔いを醒まそうと夜風を浴び、とりあえずする事は他にないのでギターケースは開けていた。
するとそこに、僕とそう変わらない年の男女が現れ、リクエストするのだった。
『津のアニキ』と苦笑いを込めて呼ぶ事になる尾上さんとの初対面だったのだが、この人の話は恐ろしく長く大量になるので、次回に持ち越そう。








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