豊岡

もう何年前だろう。


路上唄いも板についてきて、知らない町にも果敢に挑戦し始めた頃だ。まだまだ2000年の初頭だろう。2004年(2005か?)の香川でのストリートミュージシャンコンテストにもまだ参加していなかった頃だ。
季節はそう、暑かったことを覚えている。暑い時期は恐ろしい。収入がなくてもその辺に転がって夜を過ごせるのだから。いまいちハングリーさに欠ける。


恐らくそれは2003年の秋口だ。ネットで知り合った大阪のお姉ちゃんとやり取りを始めていた頃なので間違いないはずだ。
書きながら思い出していくと、その頃僕は本州の日本海側を下関より北上していた。最終的には北海道を目指していた。


山口では飲み屋街で唄えなかった下関。昼間にのどかな駅裏で唄っていた長門。夜は繁華街が真っ暗になってどうしようもなくなった萩、と調子が悪かった。
その後、島根入りしてようやく稼ぎらしい稼ぎの出来た益田市。それから数年にわたって第三のホームグラウンドになった島根の出雲市と、旅唄いもだんだん調子にのり始めていた。


鳥取ではこれまたホームグラウンドだった米子に続き、初めて足を向けた鳥取市では地元の流しのオジちゃんに厳しい声を掛けられながら、最終的にはスナックで飲んでいた。


そんな感じの山陰旅が終わり、未踏の地である兵庫県の日本海側を歩み始めたのである。もちろん事前調査なしのぶっつけ本番だ。


移動は手持ちと相談しながら小刻みに始まった。有名な城崎温泉の駅で途中下車するもインスピレーションに訴えるものがなく、次は香住という、長崎生まれの僕には聞き覚えのない街。しかし駅の雰囲気を見てなんとなく降り立ったが、そこは見事な漁村だった。漁村が悪い訳ではないのだが、街中にあやしい看板の一つも見えない。ただ、唯一というかその収穫が、このブログのトップ画になっている、今はなき餘部鉄橋だ。その絶景が見られただけでもよしとしよう。


そして無駄な移動資金を費やして、所持金も200円ほどになり、
「ここがダメなら万歳だ」
と降り立ったのが豊岡だった。豊岡という脳内地名検索は出来なったものの、駅周辺にある案内板から、コウノトリの里として有名な街だということが分かった。それからなぜだかカバンも有名だった。
この頃の僕の旅スタイルは、手持ちと相談しながら行けるところまで行く、という潔くも無計画な手段をとっていた。なので新しい町に着いた時にはスッカラカンというのが多かった。そしてそれはそのまま自分の首を絞めていた。「世の中に飲み屋街のない町などあるものか」と思っていたのだ。


果たして豊岡は飲み屋街がなかった……。
なかったわけでもないのだが、それは市役所の通りを挟んだ一角のみで、周囲には民家ばかりだったのだ。これはさすがに参った。


なのでここは出直そう。


と思い、駅の立体連絡通路もあるし、そこで今からの移動費を千円くらい稼げばいいやと甘いことを考えて実際にそうした。したところ、まったく反応はなかった。
時刻は午後五時くらいで、家路をたどる人々がいくらかはいなかった訳でもない。なのに、
「広島の旅唄い・手塚幸」
と書き記した看板も見入る人がいる訳でもなく素通りで、精魂尽きた僕はペットボトルの水を飲み干して深くため息を吐いた。どうにも計画性のなさが露呈していた。


そこへだ――。
一度これは仕切り直して夜間帯の人出を待とうと思っていたところへ、不意にランドセルを背負った小学生がテクテクと近寄ってきて、聡明そうなメガネの奥を瞬かせて言った。

「ボク、これだけしか持ってないんです」

と、取り出した財布からギターケースへ小銭を入れ、

「もっとあればなあ。もっといっぱいあげられるのになあ」

さも申し訳なさそうにそうこぼしたのだ。
これには僕も自分の不甲斐なさを噛みしめ、さっきのため息を飲み込むように笑顔を作って答えた。

「そんなことないよ。すごく助かるから。何にも出来ないけどお礼に唄うから」

そして、なるべく明るい曲を選んで、それでもたぶん尾崎豊を唄った気がする。

「ありがとうございました。僕、今から塾なんで行ってきます。頑張ってください」

そしてペコリと頭を下げ、少年は連絡通路の階段へと向かった。
僕は三百円の小銭をありがたく頂き、早速駅の売店で発泡酒とカップヌードルを買った。
さっさと次の街へ向かいたいなどと思っていた心を戒め、一期一会で辿り着いたこの町に何か残したくなったのだ。


夜を待ち、昼間に諦めかけていた飲み屋ビルへ向かうと、下調べ通り向かいには民家が広がっていた。挫けそうな心に鞭をふるい、僕はさらにビルの奥地へと入り込む。
果たして、そこにはわずかながら小路の入り組んだビル街の中に、ギターケースを広げられそうなスペースがあった。これ以上他の場所を探すよりはと、午後九時になった豊岡の町で、僕は二度目のギターを取り出す。もしも苦情が来ればそれで終わりだ。その前に何としてでも結果を出したい。


覚悟を決めたものの、狭いビルの裏口に街灯もなく佇んだ姿は通行人を驚かせはしたが、まったく実入りに繋がらなかった。だからといってやめる訳にはいかない。手持ちは百円もないのだから。
せめて千円札二枚、いや、一枚でも入れば明日の動きに繋げられる。そう思い、苦情に怯えながら唄っていると、

「おお、めずらしいな。流しがおるやないか」

立ち止まったのは背の低い白髪の紳士で、眼鏡の奥は笑っていた。

「広島から旅してます。よろしかったら一曲唄いましょうか」
「ほうか。じゃあ、神田川やってくれ」

そうして神田川を唄い終えると、紳士は嬉しそうに拍手をくださり、そしてそのままビルへ向かった。投げ銭は、なしだった。
軽く落ち込むもファーストコンタクトは無事に終えたので、すぐさま次に歌を選んではギターを構えていると、

「あ、ホンマにいた!」

老紳士の去ったビルの方から、黒いドレスの女性が走って来る。そして、

「さっきの人がね、お店で唄わんかって誘ってんねんけど」

僕は究極に研ぎ澄まされた嗅覚で、これは金の匂いがする(酒の匂いもする)と読み、あっという間にその場をかたして女性の告げた店へと向かった。


その後の話は予想通りだ。
僕は次に向かうことになる大阪行きの移動費を手に入れた。人生初の豊岡に、頭の中の白地図に、小さく色が乗った。

午前零時過ぎの駅の連絡通路は涼しい風が吹き抜け、安どのため息はやがて安らかな寝息へと変わるのだった。


 
写真は香住の漁村にて――

 
 
※Googleマップへのリンクは、利用法を思い出すまで待っててください(泣